154 修行寺 【寺院】(堀ノ内3丁目43番27号)

 

ページ番号1007995  更新日 平成28年1月18日 印刷 

当寺は、如説山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊像です。
「文政寺社書上」によると、寛永3年(1626)、下総国葛飾郡平賀村の本山本土寺(現千葉県松戸市)の末寺として、修行院日城上人により麹町(現千代田区麹町)に開創されました。その後、江戸市街の整理のため、寛永11年(1634)に赤坂一ツ木(現港区赤坂)へ移転し、さらに明暦の大火(1657)の後、幕府の防火対策のため万治元年(1658)に1,500坪の拝領地をもって市ヶ谷谷町(現新宿区富久町)へ移転しました。
貞享元年(1684)、本土寺二十一世貫首日信上人は、本土寺貫首の江戸滞在時の常宿院(住居所)を修行寺に定め、明治初期まで院代(住職代理)を置いて日常の法務をさせていました。また本土寺貫首の多くは貫主を引退すると修行寺山内智光庵に隠棲し、本土寺貫首の墓塔は修行寺にも残されました(『如説山修行寺略史』)。
元禄8年(1695)、広瀬藩(出雲国松江藩支藩)の藩主松平近栄の室、満姫が本土寺に奉納した七面大明神の木坐像が修行寺本堂に安置され、享保16年(1731)には、松平家からの寄付もあって七面堂が完成しました。江戸の町名主がまとめた『東都歳事記』には「七面参」の寺院の一つとして記されています。また文化9年(1812)、法華信者であった尾張藩附家老の成瀬正典が生前墓を建立し、一族の墓も十数基建てられました。
現在地には、都市計画を進める東京市が明治36年(1903)に市内寺院へ示した方針もあって、大正元年(1912)に移転しました。昭和20年(1945)5月25日に空襲を受け、堂宇など建物全てが焼失しましたが、のちに再建されました。
墓地には、能楽シテ方金春流の別家金春八左衛門家十世安治の墓などがあります。

平成21年8月

 

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