112 本沸寺 【寺院】(梅里1丁目1番12号)

 

ページ番号1007869  更新日 令和6年4月25日 印刷 

当寺は、案楽山と号する日蓮宗の寺院です。本尊は十界勧請(じっかいかんじょう)の大曼荼羅(まんだら)と木造日蓮上人像、釈尊像および仏使の四菩薩像です。
また、江戸中期の木造日蓮上人像が安置されています。
寛永8年(1631年)に江戸の谷中三崎(現・台東区谷中)に創建され、修行院日通上人により開山されました。
元禄2年(1689年)の寺院焼失後、翌3年(1690年)に本所出村(現・墨田区太平)に寺地を拝領して移転し、同11年(1698年)には身延山久遠寺の末寺となりました。享保20年(1735年)に第8 世日現上人は津軽家の帰依をも受けて鬼子母神(きしもじん)堂を創建し、第13 世日盛(にっせい)上人(後の身延山第52 世)は、天明4年(1784年)に起きた天明の大火で類焼した諸堂を復興し、寛政3年(1791年)には鬼子母神堂を再建しました。
当寺に安置されている鬼子母神像は、子授け・開運の鬼子母神といわれ、関東三鬼子母神の一つとして参詣や縁日で賑わい、江戸庶民の信仰を集めました。
縁起によると、この鬼子母神像は、延宝5年(1677年)4 月8 日、小網町(現・日本橋小網町)の三叉(みつまた)川から出現した霊像で、由来は、下谷池之端に住む横田七郎右衛門という熱心な法華信者が男女5 人の子を次々と失ったため、子授けを雑司ヶ谷鬼子母神に祈願したところ、満願の日に舅が鬼子母神像を持ってくる夢を見ました。また、舅の木村伊左衛門は若夫婦のために三叉川で願掛けの水ごりを取っていたとき、髪の毛にこの像がかかったので、所願成就のしるしと喜び娘夫婦の所へ持参しました。それからまもなく、横田氏の妻は男子を生んだということです。横田氏は、この霊像を在家に安置することは恐れがあるとして当寺に奉納しました。それからこの像は、水中出現の子授け・開運鬼子母神と崇められるようになったと伝わります。
大正12年(1923年)に関東大震災で堂宇(建物)を焼失、昭和17年(1942年)に現在地へ移転してきました。

 

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