あの日の荻外荘

 

ページ番号1063616  更新日 令和5年11月24日 印刷 

荻外荘の創建時の姿をご覧ください。

南側の芝生広場は現在閉鎖中です
荻外荘復原整備工事のため、これまで開放していた南側の芝生広場は、令和4年(2022年)7月1日から閉鎖しています。
閉鎖期間:令和4年(2022年)7月1日~令和6年(2024年)12月(予定)
芝生広場は、荻外荘公園開園見込みの令和6年(2024年)12月から再びご利用いただける予定です。
荻外荘の復原整備に、どうぞご期待ください。

荻外荘 創建時の姿

01創建時の荻外荘(個人提供)
創建時の荻外荘

この建物は、昭和2年(1927年)に、医師で大正天皇の侍医頭も務めた入澤達吉(いりさわ・たつきち)の別邸として創建されました。設計は、日本の建築史学の創始者であり、築地本願寺などを設計した伊東忠太(いとう・ちゅうた)。


03入澤家時代の東門
入澤家時代の正門

その後、昭和12年(1937年)に、入澤達吉から、昭和戦前期に3度内閣総理大臣を務めた近衞文麿(このえ・ふみまろ)に譲渡され、「荻外荘(てきがいそう)」と名付けられました。新聞記事や古写真によると、近衞文麿は、昭和13年(1938年)に、敷地東側にあったこの正門を西側に移築したとみられています。


02創建時の車寄せ(個人提供)
創建時の車寄せ

車寄せは、近衞文麿居住時、組閣の際に記者達に発表する場としても使われましたが、昭和18年(1943年)頃に行われた荻外荘の改修で、南向きから東向きに変更されたと考えられています。


荻外荘にはこんな家具・調度品がありました

荻外荘応接間
創建時の応接間

中国風の意匠を凝らした応接間。
設計者 伊東忠太の設計様式や最初の居住者である入澤達吉の中国趣味が反映されています。床には、伊東忠太がデザインしたといわれる龍の紋様の敷瓦が使われており、土足のまま客を応接するという使われ方であったと思われます。


荻外荘客間
創建時の客間
昭和15年(1940年)荻窪会談
「荻窪会談」の様子(提供:朝日新聞社)

近衞文麿が住み始めてからも、創建時から大きな変更が加えられなかった客間。
近衞時代、昭和15年(1940年)の「荻窪会談」、昭和16年(1941年)の「荻外荘会談」の会場として使用されるなど、大戦前夜の重要な国策の決定がここで行われました。

 

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