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更新日 : 2025年3月24日

青梅街道と都電杉並線(和田3丁目55番30号)

目次

都電杉並線

青梅街道は慶長11年(1606年)、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡の上成木(かみなりき)村・北小曽木(きたおそき)村(現・青梅市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守長安(いわみのかみながやす)により開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く、最盛期には年間2万俵以上にも達したといわれます。
道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎等の宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の4ヶ村は中野宿の定助郷(じょうすけごう)(江戸時代、宿駅常備の人馬が不足した際に応援の人馬を負担する郷村)と定められていました。
江戸時代中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州裏街道)としての性格を強めた一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。
近代以降、本道の重要性はさらに高まり、大正10年(1921年)には淀橋~荻窪間に路面電車の西武軌道が開通しました。
その後、いくつかの鉄道会社を経て、昭和26年(1951年)には東京都へ譲渡され「都電杉並線」(高円寺線・荻窪線の通称)となりました。最盛期には1日に6万人近くの乗客があり、区民の足として活躍しましたが、交通渋滞や、新宿ー荻窪間の地下鉄荻窪線(現・丸ノ内線)開業もあって、昭和38年(1963年)に廃止されました。最終運転の日には沿道に多くの区民が集まり、都電杉並線に別れを告げました。

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〒166-8570 東京都杉並区阿佐谷南1丁目15番1号

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