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更新日 : 2025年7月15日

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すぎなみビト 杉並光友会(原爆被爆者の会) 久保田朋子

未来を生きる人々に語り継ぐヒロシマ。
戦後80年を迎えた今、戦争体験者が高齢化し、戦争の事実を知る機会は失われつつあります。そんな中、自らの被爆体験を語ることで、平和活動を続けているのが、区内在住の原爆被爆者の会「杉並光友会」です。証言活動に尽力し、同会会長も務める久保田朋子さんに、自身の体験と平和への思いを伺いました。

目次

消えることのない原爆の記憶。二度と繰り返さぬよう伝え続けていく

プロフィール:久保田朋子(くぼた・ともこ)
昭和12年東京生まれ。
小学1年生の終わりに東京大空襲に遭い、それをきっかけに祖母が暮らす広島へ疎開。8歳の夏に爆心地から2.5キロメートルほどの祖母宅で被爆した。戦後は東京へ戻り、結婚後住み始めた杉並で平成15年杉並光友会に入会。原爆の恐ろしさ、平和への願いを区内の小中学生などに語り続けている。令和3年より同会会長も務める。

幼少期を過ごした練馬から、縁故疎開で広島へ

久保田さんはもともとは東京にお住まいだったそうですね

幼少期を過ごしたのは練馬で、両親と、兄が2人、姉が1人いました。自宅があった住宅街の程近く、今は環七通りが走っている場所は、一面の麦畑でとてものどかなところでした。この練馬の家に越してきた年の暮れに太平洋戦争が始まりました。

幼少期の写真
生後1カ月~5歳ごろの久保田さんと家族(父・母・姉・叔母)

どのような経緯で広島への疎開を決めたのですか?

開戦後1年ほどは身に迫る危険を感じることはありませんでしたが、日増しに空襲が激しくなり、国民学校(当時の小学校)へ入学した昭和19年、同級生の家に爆弾が落ちたんです。そのころ、国は学童疎開促進要綱を決定しました。そして昭和20年3月10日に東京大空襲があり、これはいよいよ危ないと、両親はまず私と下の兄を祖母の暮らす広島市へ疎開させました。「おばあちゃまのところへ行くから大事なものだけ用意しなさい」と言われ、慌てて支度したことを覚えています。その後、仕事で東京を離れられない父だけを残して、上の兄・姉、身重の母も広島に来ました。

家族で過ごした楽しいタベ。翌朝に原爆が落とされた

疎開後、原爆が投下されるまでのことを教えていただけますか。

6月には弟が生まれ、広島は空襲もなかったので穏やかな日々でした。ところが東京にいる父が突然「市内も危ない」と、私たちを広島市から離れた田舎に再疎開させたんです。祖母は疎開を拒んで残りました。そんな中、姉が体調を崩して、広島市の病院で診てもらうために再び祖母の家を訪れたのが8月5日。久しぶりに食事らしい食事が並ぶ食卓を家族で囲み、とても楽しい時間を過ごしました。その夜、空襲警報のサイレンが鳴ったので念のため近くの京橋川へ避難しましたが何も起こらず、満天の星空のもと帰宅しました。

ベンチに座って話す久保田さん

翌朝8月6日、お祖母さまの家にいるとき原爆が投下されたのですね

朝起きると、祖母と上の兄は既に外出していました。母は姉を病院に連れていく支度をしていて、留守番をする私たち兄妹に「空襲警報が鳴ったらお蔵の中へ入るのよ」と言いました。座敷で庭を眺めながら聞いていると、突然パーッと、真っ白とも銀色とも言えない光に包まれたと同時に、私は次の間まで爆風で飛ばされて気絶しました。「ごめんなさいね」と言う母の声で気が付いて、促されるまま立ち上がると耳の後ろから血が出ていました。急いで止血してもらい、みんなで京橋川の川原へ避難したんです。

原爆投下後、久保田さんが見たのはどんな光景でしたか?

川原は人で溢れかえり、子どもを呼ぶ母親の声や人々の泣き声などが飛び交っていて。爆心地から2・3キロメートル程のところにある御幸橋の方からは、火傷した人や血を流す人たちが大勢歩いてきました。船着場の方に着いたとき、「水、水、水が欲しい…」と声がしたのでその人を見ると、顔とは言えないくらい腫れ上がり、目は線だけ、鼻の凹凸もなくなり唇はめくれ上がっていました。祖母の向かいの家に住む広島県立第二中学校のお兄さんのお母さんが隣に立っていたので「かずそうさんなの?」と尋ねると、悲しそうに横を向いてしまいました。

言葉にできないほど悲惨な光景だったと想像します

母は爆風で脇腹に裂傷を負っていて、船着場に着いた後、倒れる寸前で救護班の兵士に支えられて陸軍病院に運ばれて行きました。弟を託された姉と下の兄と私は、惨状の中で泣く気力もなく、ただその場に立っていました。しばらくすると、祖母の家に下宿をしていた軍人のお使いで来たという兵士が私たちをリヤカーに乗せて兵舎に連れて行ってくれました。がらんとした兵舎に何時間いたか分かりませんが、傷の処置をしてもらった母が迎えに来て、祖母の家に戻りました。兵舎にはその後、大勢の怪我人が運ばれ、庭には山積みの死体がいくつも並んでいたと聞きました。翌日になり、原爆投下時に勤労奉仕に出掛けていた祖母は亡くなっていたと分かりました。

杉並光友会での証言活動。戦争を知らない世代へ

久保田さんが杉並光友会に入会したのはいつですか?

戦後は練馬の家に戻って暮らし、結婚後は夫の仕事の関係で東京を離れた時期もありますが、杉並に住むようになって50年近くになります。杉並光友会に入会したのが平成15年。終戦後、言論統制があったこともありますが、幼少期のひどい被爆体験は人前で口にすることはないだろうと思っていました。でも、証言活動を中心に光友会の活動に少しずつ関わるうちに、会の一員として参加するようになりました。

活動の中で特に印象深い出来事があればぜひ教えてください

毎年、区内の小中学校を訪れて証言活動をしています。子どもたちは真剣に被爆体験を聞いてくれて、素直にいろいろな質問をしてきます。ある小学校で証言を始める前に、初めて被爆者である私を目にした6年生の男の子が「火傷してないんだ」と驚いたように言いました。教科書などを見て被爆者とは火傷を負っているものだと思っていたのでしょう。そのとき、原爆の恐ろしさはそんな風にしか伝わっていないのかもしれないと思いました。その子には「表には分からないけれど、心に火傷しているのよ」と話しました。

原爆の恐ろしさを伝えることには、難しさや苦労もあることと思います

原爆の恐ろしさは何より、投下されたそのときで終わらないことです。私の家族は、被爆4年後に姉、8年後に下の兄が亡くなり、母は12年後に白血病で亡くなりました。被爆した人は、そんな風にいつ原爆の後遺症が出るか分からない恐ろしさを抱えてきました。もちろん、原爆に限ったことではありませんが、悲惨な体験というのはずっと記憶から消えてくれません。喉が渇いて水が欲しいとき、今でもふと向かいのお兄さんの「水が欲しい」という言葉を思い出しますし、原爆で亡くなった人を空き地で焼くにおいも忘れません。稲光はあの日の記憶をすぐに呼び起こすので今も怖いです。子どもたちに伝えるとき、あまりショックを与えてはいけないと思う一方で、ありのままを話して、本当の恐ろしさを知ってもらわなければという思いもあるので、その加減が難しいですね。

長く証言活動を続けてきたのは、どのような思いからでしょうか?

戦争の実態は話し続けなければ忘れられ、再び繰り返される危険性があります。子どもたちの中には「帰ったら今日の話を家族に話します」と言ってくれる子もいます。素直に耳を傾け、少しでも平和に対して心を動かしてくれたことを嬉しく思います。私たちに残された時間は長くありませんが、全てが伝わらなくてもできる限り多くの人に知ってほしいです。

戦後80年を迎える今、戦争を体験していない世代へ久保田さんが伝えたいことは何ですか?

世界では今も戦争が起きていて、戦争がある限り世界は平和ではないということです。ところが自分の国で戦争が起きていないと、平和活動なんて自分がやる必要はない、誰かがやっているからいいのだと思ってしまう。でも戦争は知らないうちに私たちに忍び寄ってきて、ずるずると始まる。私も、当時戦争が起きるなんて思わずにのどかに暮らしていたのですから。そして、始まってしまえばなかなか終えることができないのが戦争です。平和は一人一人が関心を持って初めて保たれるもの。自分で物事を考えることが大切です。人ごとではなく「自分が平和を保つのだ」という気持ちで、一人でも多くの人に関心を持ち続けてほしいと願っています。

杉並区戦後80年事業 ヒロシマ原爆・平和展

戦後80年の節目を迎える本年は、広島市との初めての共催により、展示などを行います。

  • 日時:8月2日(土曜日)~15日(金曜日)午前8時30分~午後5時(15日は4時まで)
  • 場所:杉並区役所1 階ロビー・2階区民ギャラリー

詳細は以下リンク先をご覧ください。

杉並区戦後80年事業 ヒロシマ原爆・平和展

すぎなみビトMOVIE

すぎなみビト「杉並光友会(原爆被爆者の会)久保田朋子さん」のインタビュー動画です。

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広報すぎなみ(令和7年度)7月15日号 第2408号

お問い合わせ先

総務部広報課広報係

〒166-8570 東京都杉並区阿佐谷南1丁目15番1号

電話番号:03-3312-2111

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