原水爆禁止署名運動

 

ページ番号1073424  更新日 令和4年6月28日 印刷 

原水爆禁止の声を、杉並から世界へ

原水爆禁止署名運動と杉並の関わりとは

昭和29年(1954年)、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験により、日本のマグロ漁船第五福竜丸をはじめとする多数の日本漁船が被爆しました。乗組員は「死の灰」と呼ばれる放射性降下物を浴び、漁獲物も汚染されました。当時、遠洋での漁獲類は日本人の貴重なたん白源でしたので、汚染された魚や「死の灰」に対する不安が国民の中におき、日本各地で水爆実験への抗議や反対の声が上がりました。

杉並区では、4月に杉並魚商組合がいち早く水爆実験に反対の声を挙げ、杉並区に陳情請願書を出し、翌17日には杉並区議会でも水爆禁止の決議がなされます。台所をあずかる女性たちも水爆禁止の訴えをはじめました。女性たちがこうした動きに参加した背景には、当時できたばかりの杉並区立公民館の存在があります。そこは、区民の学びやさまざまな活動の拠点でした。当時館長だった安井郁氏は、各所で行われていた水爆実験への抗議運動をうけて、5月9日、「水爆禁止署名運動杉並協議会」を発足させ、水爆禁止を世界に訴える「杉並アピール」のもとに統一的な運動を展開していきました。この運動は、8月には日本全体の運動となり、翌昭和30年(1955年)9月には、日本全国で約3,259万筆(当時の15歳以上人口の約6割に当たる数)もの署名を集めました。

杉並区からはじまった統一的・組織的な原水爆禁止署名運動は、海外にも広がる歴史的な運動となったのです。

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公民館の館長室で署名簿を整理する婦人たちと水爆禁止署名運動のポスター
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第五福竜丸(被爆前)
原水爆禁止署名運動に関する年表
年月日 内容
昭和28年11月1日
(1953年)
杉並区立図書館に併設する形で、杉並区立公民館開設
昭和29年3月1日
(1954年)
アメリカがビキニ環礁で水爆実験を実施
日本のマグロ漁船第五福竜丸が被爆
3月16日~ 読売新聞が第五福竜丸の被爆を報道。3月18日静岡県議会を皮切りに、全国で水爆実験禁止を訴える決議がなされ、署名の機運が高まる
3月下旬 杉並区阿佐谷天祖神社(現神明宮)に区民が集まり、区議会決議を求めて陳情することを決定
4月2日 東京都内の魚商が、買出人水爆対策市場大会を開催
杉並魚商組合員・菅原健一氏も参加
4月12日 杉並魚商水爆被害対策協議会が水爆禁止など9項目にわたる陳情請願書を高木敏雄杉並区長に提出
4月16日 杉並区立公民館での第6回婦人週間を記念して開催された講演会で、魚商の菅原健一氏の妻・トミ子氏が水爆問題の訴え
4月17日 杉並区議会が水爆実験禁止を全会一致で決議
5月9日 水爆禁止署名運動杉並協議会(議長:安井郁氏)が発足
22名の実行委員を選出
5月13日 水爆禁止署名運動杉並協議会が、水爆禁止を世界に訴える「杉並アピール」を掲げて署名簿を作成、報道発表
翌14日から、杉並区で全区的な署名運動を開始
7月20日 区内署名集計27万3,916筆
8月8日 原水爆禁止署名運動全国協議会(事務局長:安井郁氏、事務局:杉並区立公民館長室)が発足、全国運動に展開
昭和30年1月19日
(1955年)
ウィーンにて世界平和評議会が開かれ、安井郁氏が招かれて出席。安井氏は日本における原水爆禁止署名運動を紹介。この会議で原子戦争準備反対の「ウィーン・アピール」がなされ、世界的な署名運動へ展開
8月6日 第1回原水爆禁止世界大会を開催(会場:広島)
翌7日、全国署名数3,216万筆突破
9月18日 第1回原水爆禁止世界大会後、広島・長崎の原爆問題と原水爆禁止を主軸にした「原水爆禁止日本協議会」が発足。「原水爆禁止署名運動全国協議会」は、業務を「原水爆禁止日本協議会」に移管して解消
全国署名数が3,259万必を突破

水爆実験被害と署名運動の始まり

ビキニ水爆実験と第五福竜丸

アメリカは昭和21年(1946年)から昭和33年(1958年)まで、60回以上の水爆実験をマーシャル諸島で繰り返し、島民をはじめ、周辺国や地域に甚大な被害をもたらしました。

このうち、昭和29年(1954年)3月1日のビキニ環礁での水爆実験で、第五福竜丸の乗組員23名をはじめ、多数の漁船が被爆しました。

船には「死の灰」と呼ばれる放射能を大量に含んだ白い灰(サンゴの粉)が降りそそぎ、乗組員に付着し、甲板に足跡がつくほど積もりました。乗組員はその晩からめまい、頭痛、吐き気などの症状に襲われます。数日後、皮膚に火傷症状がでて、やがて髪の毛が抜けてきました。これらは急性放射能症による被害でした。

帰港後の検査で乗組員、船、漁具、マグロが強い放射線で汚染されていることがわかると、政府は主な遠洋漁港や築地等の市場で検査を指示しました。

検査によりマグロを廃棄した漁船は少なくとも856隻、放射能汚染で廃棄された魚の量は487.5トンにのぼりました。

国民は放射能に対する不安から魚そのものを敬遠し、全国的に魚の価格は大きく下落しました。魚類の放射能汚染は漁業関係者にとって死活問題であり、また、日々の食卓を脅かす深刻な社会問題となったのです。

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被爆した第五福竜丸から汚染された漁具などをおろす
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マグロの汚染検査(東京・築地市場)

署名運動の始まりと杉並区議会の決議

この社会問題に対し、杉並区で最初に声を上げたのは魚屋たちでした。

和田で「魚健」を営んでいた菅原健一氏は、水爆禁止に向けた署名運動を杉並魚商組合に提案し、3月29日に「杉並魚商水爆被害対策協議会」を結成。杉並魚商組合は署名運動を始めました。その後、協議会 は、水爆実験により被害を受けた漁業関係者に対する
経済的救済、水爆実験禁止の求め等、9項目にわたる陳情請願書を高木敏雄杉並区長へ
提出しました。

4月16日、杉並区立公民館で、婦人参政権記念講演が開かれたとき、菅原健一氏の妻・トミ子氏は「水爆問題を取り上げてください!店を閉めなければなりません!」とほかの参加者へ協力を強く訴えました。

講師として招かれていた、安井郁氏は、その訴えに対して、「この問題は魚屋さんだけの問題ではない、全人類の問題です」と意見を述べました。

その場にいた杉並婦人団体協議会の会員が緊急に集合し、水爆反対の合議決議をしました。

翌17日の臨時区議会では、菅原健一氏ら魚商関係者20数名が区議会で陳述をします。区議会は、これまでの陳情書や署名、区民陳述を受け、「水爆実験禁止決議」を全会一致で決議しました。

区議会決議に勇気を得て、原水爆の脅威から生命と幸福を守ろうとする切実な思いを持つ多くの区民は、署名運動へと突き進んでいくこととなります。

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菅原トミ子氏(左)と菅原健一氏(右)
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昭和29年4月17日 杉並区議会の決議案(議事録)

人々の思いを一つにした署名簿のスローガン

水爆禁止署名運動杉並協議会の結成

抗議・署名活動が、日本各地で巻き起こる中、杉並区でも昭和29年(1954年)5月9日、27団体・代表38名による「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成されます。同協議会議長には、安井郁氏が就任することとなりました。

杉並区の署名運動では「杉並アピール」が掲げられ、そこには「あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動」であること、「人類の生命と幸福を守る」という理念が記されました。この精神は、3つのスローガンにも込められています。

  • 「水爆禁止のために全国民が署名しましょう」
  • 「世界各国の政府と国民に訴えましょう」
  • 「人類の生命と幸福を守りましょう」

当時、日本はビキニ事件の他にも朝鮮戦争や再軍備などで人々の間で立場が分かたれていました。安井郁氏は、リーダーシップを発揮して、水爆禁止1点に焦点を絞り、「人類の良心」と「ヒューマニズムの精神」に訴えることで、そうした社会情勢の中でも署名運動を組織的にけん引することができたのです。

また、この署名運動を支えた重要な存在として「女性」が挙げられます。当時、社会教育の場としても活用されていた杉並区立公民館で、女性たちはさまざまな活動をしていました。公民教養講座や社会科学の本を読む女性たちとの読書会「杉の子会」を通して作られたつながりが、署名運動でも発揮されたのです。女性たちは、「生命と幸福を守りたい」という素朴な気持ちから署名運動に参加しました。署名簿をかかえて、署名を求め歩く婦人たちの姿は、地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目され、報道でも大きく取り上げられました。署名集めは駅頭でも行われました。署名運動は5月13日から始まり、署名数は6月24日には265,124名に達しました。当時の区の人口が約39万人であることを踏まえると、その7割近い署名数は、この運動がいかに全区的であったかを物語っています。

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安井 郁 館長(1907~1980年)[左]
スローガンが掲げられた署名簿[右]
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昭和40年当時の杉並区立公民館
(杉並区立図書館に併設)

広がる原水爆禁止の動きと原水爆禁止世界大会開催への新たな出発へ

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原水爆禁止署名運動全国協議会結成総会

「原水爆禁止署名運動全国協議会」(全国協議会)は有田八郎(元外相)、植村環(元日本YWCA会長)らが発起人となり、昭和29年(1954年)8月8日、結成されました。初代事務局長となった安井郁氏は、署名運動が全国展開されてもなお、引き続き公民館館長室を事務局とし、全国運動に取り組みました。

全国協議会趣意書には、「いかなる立場または党派にも偏しないこと」「原水爆の脅威から生命と幸福を守ろうとする全国民運動であること」と記されていました。また、全国協議会の署名簿に掲げられた「原水爆禁止のために全国民が署名しましょう」「世界各国の政府と国民に訴えましょう」「人類の生命と幸福を守りましょう」の3つのスローガンは、「水爆」を「原水爆」にしたのみで、杉並のスローガンを引き継いだものでした。事務局だった公民館は、署名の総数を全国的に集計するセンターの役割をはたし、杉並は原水爆禁止署名運動の中心的存在となっていきました。

この運動の最中の9月23日、第五福竜丸の無線長・久保山愛吉氏が急性放射能症で死去しました。彼の死は「三たび許すまじ原爆を!」の国民感情の大きな流れをつくり、全国の原水爆禁止署名運動をさらに前進させ、「全国協議会」の活動が活発になりました。

一方、第二次世界大戦終戦直後から始まった東西冷戦は、両陣営の核開発競争を激化させました。これに対し世界では、ビキニ事件以前から国際的な反核会議を開催しており、安井郁氏も昭和30年(1954年)1月、ウィーンでの平和理事会議に招かれました。この際、安井郁氏は日本の原水爆禁止署名運動を紹介しています。同年8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。この大会の後、原水爆禁止と広島・長崎の原爆問題を主軸に据えた「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が発足しました。署名運動を中心に活動した「全国協議会」は、原水協に業務を移管しました。これ以降、原水爆禁止世界大会は原水協によって毎年8月に開かれていきました。

署名運動による最終署名数は、32,590,907名(昭和30年(1955年)9月)にのぼりました。


出典・参考文献:「杉並区公式情報サイトすぎなみ学倶楽部」、「戦後70年事業 区民の戦争戦災証言記録集」、「原水禁署名運動の誕生 東京・杉並の住民パワーと水脈」(丸浜江里子著)、「第五福竜丸は航海中」(公益財団法人第五福竜丸平和協会発行)、「歴史の大河は流れ続ける(4)」(杉並区立公民館を存続させる会編)

 

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