荻外荘の歴史

 

ページ番号1042922  更新日 平成30年9月3日 印刷 

荻外荘の歴史

 現在、「荻外荘」の名で知られる邸宅は、東京帝国大学医科大学教授(現 東京大学医学部)や宮内省侍医頭などを歴任した入澤達吉(いりさわたつきち)の荻窪別邸として昭和2年(1927年)に建てられました。設計を担当したのは、義弟の伊東忠太(いとうちゅうた)でした。伊東は、日本における建築学、とりわけ建築史学の開拓をおこなった人物として知られます。
 入澤の荻窪別邸は建築当初、休日を過ごすための別荘として建築されましたが、昭和11年(1936年)、入澤は小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)にあった本邸を売却、荻窪別邸を本邸としました。漢詩を好んだ入澤は、同邸宅を「楓荻荘(ふうてきそう)」、建物を含めた一連の敷地を「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」と名付け、好んで居住しました。
 昭和12年(1937年)、「楓荻荘」は内閣総理大臣就任に伴う訪問客の多さから逃れるため、東京郊外に邸宅を求めていた近衞文麿(このえふみまろ)に譲渡されます。近衞入居後、「楓荻荘」は近衞の後見人であった西園寺公望(さいおんじきんもち)によって「荻外荘」と名付けられました。
 「荻外荘」は近衞家の生活の場であると同時に、第二次近衞内閣の基本方針を話し合った「荻窪会談」(昭和15年(1940年)7月19日)や対米開戦を回避するために行われた「荻外荘会談」(昭和16年(1941年)10月12日)の場となるなど首相官邸に準ずる政治空間として機能しました。
 昭和20年(1945年)、近衞は戦犯容疑によってGHQにより逮捕命令を受け、出頭期限の同年12月16日早朝に「荻外荘」の書斎で自決しましたが、近衞死去後も「荻外荘」は近衞家の生活の場としてあり続けました。
 昭和35年(1960年)、多くの政治会談の場となった「荻外荘」の玄関棟・客間棟が豊島区に移築され、荻窪に残った部分は、近衞家による小規模な改修が繰り返し行われ、現在の姿となりました。
 平成24年(2012年)、「荻外荘」の保存を求める声が挙がり、そうした要望を踏まえ杉並区が平成26年(2014年)に建物部分を含む敷地を購入しました。
 平成28年(2016年)3月1日、「荻外荘」は昭和前期の政治の転換点となる重要な会談が数多く行われた場所として、国の史跡に指定されました。

近衞文麿(1891年~1945年)

画像:近衞文麿

 近衞文麿(このえふみまろ)は、大正・昭和期の政治家です。藤原摂関家の嫡流で、皇室に継ぐ由緒を持つ近衞公爵家の長男として生まれます。昭和12年(1937年)6月に第一次近衞内閣を組織、その後も昭和15年~16年(1940年~1941年)に第二次・三次近衞内閣を率いました。
 終戦後の昭和20年(1945年)12月6日にGHQより逮捕令が発せられ、巣鴨拘置所出頭当日の12月16日早朝に荻外荘の自室にて自決しました。

「荻外荘」の命名

西園寺公望の書による「荻外荘」扁額
西園寺公望の書による「荻外荘」扁額 (郷土博物館所蔵)

 荻外荘は当初、医師で大正天皇の侍医も務めた入澤達吉の別邸として昭和初期に建てられました。荻外荘の名は、昭和12年(1937年)に近衞が入澤から邸宅の譲渡を受けた後、近衞の後見人であった元老の西園寺公望が命名したといわれています。

政治の舞台となった荻外荘

 近衞文麿は、荻外荘で政治的な会談も行いました。特に著名な会談は「荻窪会談」や「荻外荘会談」です。

荻窪会談

 第二次近衞内閣成立直前の昭和15年(1940年)7月19日に、大臣就任予定者を招いて開いた会談で、ドイツ・イタリアとの提携強化を含む第二次近衞内閣の基本方針が話し合われました。この方針は、同年9月27日の日独伊三国同盟締結につながりました。

荻外荘会談

 開戦直前の昭和16年(1941年)10月12日、対米開戦を回避するべく開かれましたが、アメリカの要求する中国大陸からの陸軍撤兵を陸相の東條が拒否したため、第三次近衞内閣は総辞職することになりました。

 

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